小ネター父が亡くなって10年ー

こんにちは。
今日は、小ネタということで、「父が亡くなって10年」
というテーマでお話します。

私の父が亡くなったのは、3月中旬でした。
ふと数えたら、父が亡くなって10年が経過していました。
振り返るとあっという間でしたが、
長くてつらい日々だったと考えています。



「お父さんが好き? 嫌い?」という問に対しては、
「わからない」というのが今の正直な気持ちです。
むしろ、「どうでもいい」「そんな人、いたっけ」というレベルです。



私は、小学校受験をさせられて、
行きたくもない某私立小学校に無理やり通わさせられました。
なぜ、その小学校だったのか?
父が学生時代に好きだった女性が、その学校に
小学校から大学まで通っており、彼女のように娘を育てたいから、
という、クッソしょうもない理由です。(まるで源氏物語の光源氏

あと、その学校は名門校だったので、受験に受かれば、両親は鼻高々です。
加えて、「大学まであるから、今後は受験させなくていいし、親として楽」
という自己中極まりない思惑もありました。
子どもの気持ちは考えていません。

その私立小学校は、お金持ちの家庭の子どもが大半で、
サラリーマン家庭出身の私は、いじめられました。
通いたくない、と登校拒否しても、無視。
学校に戻りたくなくて、肌をかきむしって飛び火を悪化させても、無視。
その挙句に、「娘を通わせ続けたい」と担任に直談判しに学校に行く有様。
親は、私の担任に「合わなければ、退学していただいても結構です」と言われ、
私に対して「小学校中退になりたい?」「学校に行かないという選択肢はない」
「受験にいくらかかっているの」「学校に行くのは子どもの義務」と脅迫しました。

私の父は、一番ひどい言葉は、私の母に言わせて
(というか、母の言動を放置して)
優しい父のフリをして、諭すように「学校に行きなさい」と言うので、
いま考えれば、最低な偽善者だと思います。


父の偽善者ぶりをあらわす、彼がよく言っていた言葉の一つが、
「自分は、両親からの負の連鎖を、自分の代で断ち切りたいと思う」でした。

私の父方の祖父は、結構厳しい父親で、
暴力的な言動で子どもの人格を否定し、教育虐待も苛烈な人でした

父は、自分が父親からされたことを私に話し、
「自分は、そういう子育てはしたくない」
「子どもは、のびのび育てたい」と言っていました。

「優しいお父さん」だと、子どもの頃は思っていました。
でも、彼の「優しさ」は、あくまで、
私が彼の掌で彼の思い通りに行動している場合に限られ、
私を誘導し、コントロールするものでした。


私の心は、どんどん、どんどん、死んでいきました。
大っ嫌いな小学校に無理やり通い続け、
そのままエスカレーターで中学・高校に進学し、
文句を言われないように、ひたすら勉強マシーンとして勉強する日々。
成績が良いと褒められるほど、私の心は麻痺していきました。

生きるために、私は、いい子を演じ続けました。
いい子、つまり、親が望む人間であることが、
自分の初期設定だと思っていました。


私が高校生の時に、父がくも膜下出血で急死し、
元々険悪だった、私の父方の祖父母・伯父伯母と、私の母の仲がもっと険悪に。
私は家庭内で、心がボロボロになる青春時代を過ごしました。

家庭にいることが、とてもつらい。家庭は影。
成績がいい。公共の場にいる自分は、明るい。
光と影のコントラストに、息苦しさを抱えていました。


祖父母にも母にも、人格を否定され、傷つけられる。
慢性的な愛情不足に陥っていた私。
記憶の中のお父さんは、「マイホームパパ」で、「優しいお父さん」。
だって、みんなそう言っているから、きっと、理想的な人だったんだろう。

亡くなった父を美化していた私は、「愛してくれる」人を求めて、
ころころと好きな人を変え、恋人を変え、
モテることへの歪んだ喜びで、自分を満たしていました。

若い女の子、というだけでチヤホヤされているだけなのに、
私は調子に乗っていました。
気が付けば、年上の男性ばかりと交際していました。
受け止めてほしかった。お父さんのように。

でも、どうしても、恋人との仲がうまくいかない。
なんでなんだろう。
相手が未熟なんだろうか? などと、超失礼なことを考えていたこともありました。


自分が「なんか変」「なんか息苦しい」と
本格的に気づき始めるのは、20代半ばでしていた婚活中、
そして、その違和感の理由に気づいたのは、婚活をやめた後でした

婚活では、女性が商品のように評価され、
若くて、子どもを産めそうで、でしゃばらない、
男性にとって都合のよい女性が、「購入」されやすい。
それが社会の一般的なルールかもしれない、
でも、私らしくない…。

自分らしさ、って、いったい、なんだ?

ぐるぐると、考えたときに、気づきました。
私は、これまで、「私を受け入れて!100%!!」と、
相手の男性の都合を無視して、「お父さんのように無条件で愛して!!」
と言っていたようなものでした。

でも、考えれば、考えるほど、
私の父は、そもそも私を無条件で愛していなかったし、
彼は、自分の言うことを100%聞くか・聞かないかで、
私を判断していました。

つまり、「親の言うことを100%聞く=いい子」で
「いい子=愛してあげてもいい存在」という図式に、
私は押し込められていて、
知らず知らずのうちに、私自身も、
私の考えを100%受け入れてくれる人を求めていたのでした。
私は、それが「愛」だと、勘違いしていました。


私は、ゾッとしました。
毒家族が再生産されていく、と。


思い返せば、私の父も、心が壊れていたのだと思います。
・かなり、ひょうきんで、面白い人 → 機能不全家族で「ピエロ」をしていた後遺症
・人と距離を取り、冷めている → 回避型の愛着障害
・爪を噛む、貧乏ゆすり、成人後のおねしょ → 家庭でのストレス

そして、私の父方の祖父に、親から逃げる気力も体力も破壊されていたので、
そのまま、私の父方の祖父母との同居を続け、
妻(私の母)や娘(私)に毒要素をまき散らす両親(私の祖父母)
に、ダイレクトに毒要素を与えつつ、
自分も同じ環境で毒要素が抜けなかったのではないか、
と私は考えています。


幸いなことに、私には、毒家族から逃げる行動力と経済力がありました。
そして、そのベースを築いたのは、
皮肉なことに、父の教育虐待により無理やり勉強を頑張ったからでした。
学べば身に就く、つらくても学べる、
そんな根性論が身についてしまっていたんです。

ある意味、父のおかげで、私は毒家族から逃げるベースを手に入れることができました。
偽善者だけれども、彼の言っていた、
「負の連鎖を、自分の代で断ち切りたい」という言葉は、
成就されるのではないかな、と思います。
私が、今後、周囲の人や、自分の子どもと、
まともな人間関係を築くことができれば、ですが笑


そんな、複雑な思いが合わさっているので、
父のことは、好きとも嫌いとも、断定できない現状ですし、
それでいいかな、と思っています。

もう、10年も前に亡くなっているので、正直、
父のことはあまり思い出さないのです。
彼はいない人、という思考回路が出来上がっています。
どうでもいい過去の人、なのかもしれません。


今日は、私の父の命日も近かったので、
父の死後から10年、ということで、つらつらと書き綴りました。

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