毒親(家族)体験記ー亡き父を美化していた私が、父からモラハラを受けていたと気づくまでー

 こんにちは。

今日は、「私の毒親体験記」ということで、
「亡き父を美化していた私が、父からモラハラを受けていたと気づくまで」
というテーマでお話をしたいと思います。

私の父は、私が高校1年生のときに亡くなっており、
父の死後約10年間、私は、思い出の中の父を美化し、
「優しい父親だった」と思っておりました。
しかし、毒家族(父方の祖父母、母)と絶縁し、
これまでの過去について考える中で、
私は、自分の父親は、モラハラ人間だったのではないか、と思いました。

この話を、ある相談者さんに一例としてお話ししたところ、
「家族に対する思い込みが解消されていくところが、参考になった
とのお声をいただいたので、他の方の参考にもなるのでは?
と思い、記事として執筆することにいたしました。



私の父は、私が高校1年生のときに亡くなりました。
父がどんな人だったか?ということを考える上で、
長いこと、私の中で印象深いものがあります。
それは、父の戒名です。
私の父の戒名は、「慈恩院○○○」です。
(葬儀会社に教えてもらった、浄土真宗のお坊さんにつけていただきました。
 私は、「そんなに立派にしなくても」と言ったのですが、
 私の父方の祖父が、「墓に院号がついていない人間がいると、
 自分の戒名に院号をつけにくいから嫌だ」と言い、
 大金を払って院号をつけました。あくまで、自分のため(笑)
 見栄っ張りな母も、同意しました…)

なぜ、戒名に「慈」と「恩」が入っているのか?
それは、父が亡くなったとき、生前の父の様子を聞かれて、
家族で話し合った結果、
・穏やかな性格だった
・娘に優しかった
・家庭を大事にする、マイホームパパだった
と、お坊さんに伝えたからでした。

さて、それ以来、私は父のことを
「優しくて穏やかで、家族想いの素敵な父親だった」と思って過ごしていました。

しかし、心の奥底には、ひっかかりというか、
モヤモヤした思いを、抱えていました…。


確かに、穏やかだったかもしれない。
でも、本当に、私のことを大切に思っていただろうか。
私の父の言動は、優しそうでいて、そうではなかったのではないか
私の父は、本当に、家族を大切にしていたのだろうか…?


私には、父にされて、嫌だったことが、いくつかあります。
一番嫌だったことは、無理やり、通いたくもない私立学校に、
小学校から高校まで通わさせられたこと。
不登校も、自傷行為も、受け止めてもらえず、
・学校に行かないお前は変だ
・お前のためを思って、素晴らしい私立に入れたのに
・いじめなんか気にするな
・友達がいなくてもいいじゃないか
・クラスメイトに問題があっても、
 教育は素晴らしいから、絶対に行け
・教育の素晴らしさが分からないなんて、お前は変だ
…と言われ続け、私は、
「あぁ、私って、変なんだな。
 あの私立に通わせてもらっているって、感謝しないといけないんだな。
 嫌でも、毎日通わないといけないんだ。嫌だって、思ったらいけないんだ…」
と思い、「嫌だ」という気持ちに蓋をしながら、通いました。

両親に対する反発はありました。
分かってもらえないことへの悲しみもありました。
でも、親に「お前は変だ」と言われ続け、
「変な私が、変わらなければならないんだ」と、思い続けていました。

そう思い続け、本当の気持ちに蓋をするうちに、
「自分が頑張った」から、
・大学に、学費免除で進学でき
・大学在学中に、試験に合格し
・希望の就職先で勤めることができた
のにも関わらず、すべて、「親が受けさせてくれた教育のおかげ」
だから、「親のおかげ」だと、思い込んでいました。

小さいことかもしれませんが、他にも、嫌だったこととして、
・読んでいる本や見ているテレビを否定された
・価値観を否定された
・親の意に沿わないと、人格を否定された
・習いたい習い事をバカにされて、習わせてもらえなかった
・習いたくない習い事を無理やりさせられた
…ということが積み重なり、私は、
自分の「世界」を失っていきました。

私は、本来の「自分らしさ」を失っていました。
自分の中身が無いような、そんな不安感でいっぱいで、
不安を埋めるために、自分に無理を重ねていました。
無理を重ねて、自分を何かで埋めて、心の不安を埋めようとしても
どこまで行っても、いつまで経っても、不安は埋まりませんでした



毒家族と絶縁し、しばらく経ってから、
私は、近所の図書館で、モラルハラスメントに関する本を手に取りました。
運命的でした。なんとなく、「モラルハラスメント」という言葉に、吸い寄せられました。

そのときは、祖父や母からモラルハラスメントを受けていた、と思っていました。
もちろん(?)、彼らからも受けていたのですが、
本を読んでいるうちに、「私の父も、私にモラルハラスメントをしていた…?」
と思うようになりました。

最初は、「いやいや、そんなはずはない。
私の父は、穏やかだったし、分かりやすい暴言を吐いたこともない
優しい人だった。」…と思っていました。

でも、モラルハラスメントの本を読んでいるうちに、
その本に書かれていた、モラハラの言動と、私の父の言動が似ていたのです。
例えば、
・価値観を否定する
・相手を否定するときに、「自分は正しく、お前は変だ」
 という論調で否定する
・「なんでわからないんだ?」「当然だろう?」と
 相手をバカにする
・コントロールに従わないと、不機嫌になる
という特徴に、ピッタリ一致していました。
そして、家族の問題を内側にとどめようとしたり、
心の悩みを一人で考えろと突き放したりして、
モラハラ被害者を孤立させていくところも、
モラハラ加害者と同じだったのです。

私は、それでも、そのまま素直に、
私の父親が、モラハラ加害者だと思えませんでした。
ただ、ふと、それまで交際してきた数人の男性のことを考えると…
彼らは、モラハラ加害者だったのではないかと思いました。
そして、モラハラ加害者の元交際相手たちとのやり取りを振り返ると、
その原点は、私と父母とのやり取りにありました。

そう、元交際相手たちと私は、
モラルハラスメントの加害者と被害者と同じやり取りをしていました。
そして、それらと同じことを、私は、父ともしていました。
それでも、私が父のことをモラハラ加害者と思えなかったのは、
どうしてなのだろうか…?

すぐに、答えは出ませんでした。
でも、時間が経って、ふと、気づきました。
「私は、父のことが好きだと思いたかった。
 父は優しい人だったと、思いたかった。
 だから、「慈恩院」という父の戒名への印象が強かったのだ」と。

・両親から愛されなかったと思うのはつらい。
 だから、父には愛されていたと思いたかった。
・両親が二人とも親として不適格な人間だったとは思いたくなかった。
 だから、父のことを好きな人だったと思いたかった。
・父との「良い思い出」が無ければ、
 祖父母や母とのひどい生活の中で、潰れてしまいそうだった。
・嫌で仕方なかった私立学校も、
 自分のためになったと思い込まなければ、
 自分の人生のうち12年間を否定してしまいそうな気がした。
・これまで価値観を否定され続けたことや
 いまの自分が「親の押し付け」によって成り立っていることを受け入れれば、
 いまここにいる自分の存在を否定することになってしまいそうな気がした。

そのような思いから、私は、
美化した父を胸に抱き続けていたのだと思います。

「慈恩院」なんて院号までつけられて、
仏様(死者)になってしまった私の父。
美化しないといけない存在であるようにも思えたし、
美化しないと私のメンタルが持たない…。
だから、私は、父にされてきた本当のことや、
父にされたことに対して私が抱いてきた本当の気持ちに蓋をして、
モラルハラスメントの事実を見て見ぬふりをして、
モラルハラスメントが当たり前の人間関係だと思っていたのでしょう。


私の父は、モラハラをする人間で、私は彼との関係から、
歪んだ人間関係をデフォルトだと思うようになってしまった…。

父をモラハラ加害者だと思うことはつらいことだったけれども、
その事実を受け入れたことで、
これまで、モラハラをする異性と交際してきたことに、
納得がいきました。

どうして、彼らに惹かれたのか。
どうして、彼らとの歪んだ関係を続けたのか。
それは、父との歪んだ関係が、
自分の心の中で終わっていなかったからなのだと、私は思います。

元交際相手も、みんな、優しそうな人ではありました。
ただ、私の父と同じように、
穏やかな表情で、「そんな君は変だね」「おかしいよ」と
私の価値観を否定し、私をコントロールしていたのです。

同様に、私の父も、
娘を諭す、見せかけの「優しい声」で、私をコントロールしていたのです。

いままで、どれだけ、父親に自分の「世界」を壊されたのだろうか
いままで、どれだけ、交際相手に自分の「世界」を壊されたのだろうか。

これまで壊され続けた自尊心と価値観に、めまいがするような思いをした後、
私は、自分がかつて抱いていた、強い結婚願望と向き合うことになりました。


私は、「早く結婚したい」「すぐ結婚したい」と、
結婚願望が強かったのですが、私はそれを、
「好きな人と一緒になりたいからだ」と思い込んでいました。
でも、毒家族と絶縁して、一人で、穏やかな時間を過ごすようになって、
改めて考えると、私は、それほど結婚願望が強くない人間でした。

いま思えば、毒実家があまりにもつらすぎたので、
モラハラ男と一緒にいた方が「マシ」だったのです。
自宅以外の居場所が欲しくて、私は交際相手の家にいた。
結婚すれば、毒家族にも「家から出ることを許してもらえる」と思っていた。

でも、実際は、毒家族は私の交際相手や婚約者に、とても厳しく、
結局、結婚後も私を毒実家に縛り付ける気満々で、
毒家族とつながったまま、結婚しても意味が無かっただろうし、
毒実家から出ても、相手がモラハラ男では、
結婚生活も不幸だっただろうと思います。
本当に、急いで結婚しなくて良かったと、つくづく思います。

毒家族と絶縁した今はそのように考えていますが、
毒家族と一緒にいた頃は、モラハラ男と一緒にいた方がマシと思えるくらい、
私は、毒家族といることがつらかったし、
毒家族からのモラハラで、メンタルと価値観を壊され続けてきた…

毒家族からのモラハラによって、
愛と自尊心に飢えていた私は、
立派そうに見える男性と交際していました。
交際すれば愛してもらえる、立派な相手と付き合えば欠けてしまった自尊心を埋められる、
そんな風に思っていたんです。
でも、立派そうに見える交際相手は、狡猾に私にモラルハラスメントをしていた。
その積み重ねで、私は、壊れてしまったのでした。

「価値なんかない」(と思い込むよう仕向けられてきた)
自分を愛してくれる「素晴らしい人」に、
もっと愛されたくて、私はモラルハラスメントを受け入れる。
その最初のきっかけを作ったのは、私の父のモラルハラスメントだった…。


一つ、大切な例え話をします。
なんという現象だったのかは忘れてしまったのですが、地学で学んだ現象で、
川辺の岩に、小さい石が当たって、岩の一部がくぼむと、
そこに水の渦が発生しやすくなります。
すると、渦に誘われた新しい石が岩のくぼみに入って、
水の渦とともに回る石が、岩のくぼみを大きくして、穴を穿ち、
その大きくなったくぼみにより大きい石が入り込み、
もっと、もっと、岩を削っていくようになります。
岩は私で、最初の石は私の父で、
次から次に入り込んでは私を削る石は、私の父や、私の元交際相手でした。
私という岩は、モラルハラスメントで削られ、
心に不安という穴を抱えていた。
削られていく岩のように、自分が持っていた自信も削られていった

そのことに気づいたとき、
私の父は、モラハラパーソナリティだったのだと、すとんと、
心に事実が落ちてくる感覚がありました。
あぁ、私の父は、モラハラ加害者だったのだと。


それ以降、私は、
「もう、しょうがないよね。あんな家庭に生まれてしまったし」
というあきらめも芽生えた一方で、
「自分を愛せるのは自分だけだから、精一杯、自分を受け入れて愛そう」
と思いました。
この、「精一杯、自分を受け入れて愛そう」という気持ちが、
その後、自分を認めて受け入れていく一つ一つの積み重ねにつながっていきました。

失ってしまった「自分らしさ」「自分の価値観」「自分の世界」は
自分を認めていく活動の中で、苦しみもがきながら、
取り戻していくものだと思います。

・「幸せとは何か?」という大切な価値観ですら
 他人の目線に頼っていた自分が、
 自分らしい「幸せ」の定義を探してく旅
・家族から、コントロールの無い伸びやかな愛を教わらなかった自分が、
 「愛とは何か?」を考え、愛の正体を探し求めて、
 自分のものとしてく旅
私は今、「旅」の中にいて、日々、考え、向き合っています。

つらかったけれども、自分の父親を、モラハラ加害者だと認めた。
そこから、一歩ずつ、歩み出した。
その出来事が、いまの自分につながっているのだと、私は考えます

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